2015年

3月

13日

幸福(生きがい)の実現 ― 幸福実現の条件

2.幸福の実現

 この章の最後に幸福実現の条件について触れておきたい。

 アランは自由な労働をあげ、ヒルティは倫理的秩序と正しい仕事と勇気の三つをあげている。(秋山英夫著「ヒルティの言葉」)また、ラッセルは、消極的には不幸を避けること、積極的には、仕事への全力投球と愛情と広やかな興味と、自己と社会の融合を説いた(ラッセル著、堀英彦訳「幸福論」)。このほかにも沢山の説があるが、ここでは、筆者の恩師である南岩男教授の説を借りて説明することにする。

 幸福実現の条件は3つある。1つは健康である。心身ともに健康であることを意味する。2つ目は、よい人間性である。よい人間性の持ち主ほど幸福になる可能性が高い。3つ目は、己の役割をしっかり果たすことである。それぞれについて説明する。

 ①健 康

 健康が幸福の大事な条件であることについては異論はないであろう。健康でなければいかに能力があり、誇るべき仕事があっても、それに全力投球できないからである。

 健康であるということは、身体的な健康はもちろん、精神的・心理的な健康も含む。近年特に重要なのは、ストレスによる健康障害である。一説によれば、病気の80%以上がストレスによるものだという。ストレスが、心と体に歪みをつくり、個人だけでなく家庭や会社、さらには社会にも大きな負担を強いることになるのである。個人個人の自己管理とともに、ストレスを蓄積させない職場づくり、環境づくりや管理技術が求められるところである。

  

 ②よい人間性

 幸福実現の二つ目の条件はよい人間性である。よい人間性とは、

ⅰ.冷静な頭脳(cool head)

冷静な判断力、何が正しいのか識別する力(智)

ⅱ.温かい心(warm heart)

思いやりの心、相手を理解する、相手の立場に立ってものが考えられる慈悲の心(仁)

ⅲ.強い意志(strong will)

決断力、己の信ずることを断じて行う意志、勇気をふるって打ち込む意志(勇)

このⅰ、ⅱ、ⅲの三つを一身に兼ね備えている人間性である。


 この逆を考えると分かりやすい。冷静な頭脳に対して、興奮しやすい頭(hot head)の持ち主であれば、すぐにカッとなり、頭に血が上ったまま物事を判断することになり判断を誤りやすく、幸福にはなりにくいといえる。

温かい心に対して、冷たい心(cold heart)であれば、協力してくれる人もなく、目標や夢をかなえることも難しく、幸福にはなりにくいであろう。

強い意志に対して、弱い意志(weak heart)であれば、主体性がなく、いつも他人の思惑を気にした言動となってしまい、あとあとああすればよかった、と後悔することとなり、幸福にはなりにくいということである。


③己の役割を立派に果たす

 ①と②は、幸福実現の条件の基礎的条件といえる。真に生きた具体的条件は、すでに何度も述べてきた「己の役割を立派に果たす」ことである。

 人は生まれながら様々な役割を持つ。そのさまざまな役割を立派に果たすことによって初めて、生産人としても、従業員としても、生活人としても、家庭人としても、社会人としても幸福を実現できるのである。この役割を立派に果たすための行動の仕方、行動基準をシップ(ship)といい、道ということは既に述べたとおりである。“道”というと求道者のような厳しさを連想しがちであるが、無難禅師は、「道という言葉に迷うことなかれ、朝夕己がなすわざと知れ」と、自分の与えられた役割、すなわち、当たり前のことを当たり前にしなさいと教えて下さっている。


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2015年

3月

04日

幸福(生きがい)の実現 - 働く人の幸福

幸福とは

ⅰ.生活の目的は生きがいである。生きがいとは、生活全体を規制する生活原理であり、価値観であ

り、その人の志である。PIでは、この生活原理として「幸福」を設定するのである。

  幸福とは、人間を完成させる過程で、身体全体で感じるある状態であり、全人間的共鳴をいう。

人が生きている喜びを感じ、心の躍動を覚える状態である。わかりやすく言うと、ワクワク、ドキド

キしたり、心静かに満たされる状態をいうのである。したがって、現実の生活に当たっては、直接幸

福を追求することはできない。幸福以外の何物かを追求することの結果として、幸福(感)が得られ

るのである。幸福も狭義の意味での自己実現もあくまで結果として得られるものであって、これを目

的として追い求めると、永遠に欲求不満になり、「幸福になろうとすればするほど、幸福になれな

い」という“幸福のパラドクス”に陥ってしまうのである。

そこでJ.S.ミルは、ここへ勤労(work)をもってきて、「Happiness(幸福)がW‐ork(勤労)の前にあるのは辞書の中だけだ」といったのはこのことである。

 

  幸福とは、人間の持つ欲望を分母とし、満たされた欲望を分子として、その結果の状態に伴って

出てくる心身全体で感ずる感情である。人の一生は欲望を中心として展開しているからである。

 問題は、持てる欲望の質と量、すなわち、持てる欲望の真偽、善悪、美醜の質とその量の大小と、

満たされた欲望の方法と能力、すなわち、欲望を満たす方の善し悪しと能力の大小、ということに

なる。

 

 

             幸   満たされた欲望(方法・能力)

       福 =  

            感    持てる欲望(質と量)

  

   これによって、その人の価値が決まるのである。その人の人間観、人生観、仕事観、社会観、世

界観である。前述したように、人生を、社会を「存在」とみるか、「つながり」とみるかによって大

きく違ってくるのである。

 この欲望の正しい持ち方とその正しい満たし方を教えることが「教育の根本」である。松下幸之助翁も人材育成に際し、「人間の欲望こそ生命力、と考えたが、それは善にも悪にも向かい得る。その方向づけ、育てることが重要である」とおっしゃっている。

  

 ⅱ.働く人の幸福とは何か。およそ働く人の持つ欲望は、集約すると以下の二つになる。

  ①自分の仕事(役割)に全力投球したい

  ②業績能力に応ずる報酬(よい条件(物・心))に恵まれたい

  

 マズローの欲求構造に当てはめると次のようになる。

 

  高次・・・・ ⑤自己実現的・・・自由(創造、本領発揮)

 (生活目的)                            

 

         

         ④自我的・・承認、公平、昇進、支配   

 

  中次・・・・

 (心的条件)  ③社会的・・仲間、帰属、非孤独

 

         

 

           ②安全的・・生命、身体、財産、地位

   低次・・・・     

  (物的条件)  ①生理的・・衣、食、住、性

 

        


 

 以上の欲求構造が示す通り、低次の生理的欲求にはじまって、それが満たされてはじめて次の段階へ上昇し、高次の自己実現的欲求に終わる。低次と中次の欲求は、②の「よい条件に恵まれたい」に該当し、高次の欲求は①の「自分の仕事に全力投球したい」に該当する。

 よい条件に恵まれた場合に持つ感情は、満足感であり、対集団感は定着性である。自分の仕事に全力投球した場合に持つ感情は充実感であり、対集団感は献身性である。

 かくて、働く人の幸福とは、満足感と充実感、定着性と献身性の複合された状態における幸福感である。ここで特に大切なのは、充実感と献身性であることは言うまでもない。

 

 ハーズバーグの動機づけ/衛生理論はこのことをよく示している。

(イ)衛生要因(hygienic factors )

  賃金、時間、作業条件、その他の労働条件、人間関係、意思疎通、福利厚生施設等の衛生要因、 

 すなわち仕事の周辺事項が改善され、満たされた場合は、働く人は「満足」が得られる。しかし   これはいわば受け身であって不平不満がない、居心地がよい、というだけで仕事そのものへの情熱には直接結び付かない。これらが劣悪ならば、当然士気は低下することになるので、これらは仕事への情熱の底辺を支えるために不可欠な要因ではあっても、すなわち定着性がアップする要因ではあっても、仕事そのものへの全力投球の要因にはなり難い。

(ロ)動機づけ要因(motivators)

真に働く人を動機づけるものは、仕事そのもの、達成、責任、承認といった要因である、というのである。すなわち、賃金その他の労働条件に満足していても、魅力ある仕事、喜んで全力投球し得る仕事がない場合には、生きがい、幸福感は得られないということである。

現実の職場においては、企業の風土・従業員の性別・年齢・民族・習慣等によってある人にとっては衛生要因が、他の人には動機づけ要因として作用するこがあることは否めない。したがって、現実の職場内の管理に当たっては、その時々の状況に応じて、何が衛生要因で、何が動機づけ要因であるかを的確に捕まえることが必要であるが、しかし人間の本質からいって、最も強力な動機づけ要因は、自由・自主を中心とした人間的成長であろう。仕事そのものが、自由で自主的である場合に、仕事は苦痛でなくなり、喜びとなり、その仕事に愛情と誇りと責任とを持って全力投球できるのである。


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2015年

3月

03日

働くことの意味 - 喜働化を目指して

(2)喜働化を目指して

 

 人間の労働は、自己の心身の働きを媒介として、外的自然や環境に変容を加える合目的的行為である。その特徴は、

 ①全人間的活動である。全人格の投影である。いかなる場合も人格と労働能力とは分離できない。五体は一身で、これによって文化と自覚の世界を作り出す創造的活動である。

 ②根源的な生命より発する基本的欲求である。条件次第で苦痛にも喜びにもなる。

 ③人間の能力は、機械と異なり無限の発展性をもつ。

 ④人間の意欲を支配し得るものは、結局本人だけである。

ということになる。


 条件次第で苦痛にも喜びにもなるということであれば、当然、喜びになるようにすることが大切である。それにはまず、どのような仕事もしくは労働が苦痛な労働になるのか考えることにする。苦痛に満ちた労働とは、

 ①お金のため、生活のために仕方なく働く

  今日の日本社会においては、かつての貧しい時代のような、お金のため、生活のためだけに働くということは少なくなっているが、2009年のリーマンショックにような世界同時不況による、人員削減、特に非正規社員に対する派遣切り、雇い止めといったことによって職を失った人達にとっては、当面はお金のため、生活のために働くということになる。その場合は、仕事、職業を選ぶということができず、働く場、仕事があればいいという状況で、目の前の生活、将来の生活への不安からは逃れ得ず、到底喜んで働いているとは言えない。

 ②仕事の単調さ、無意味さ

  かつてのベルトコンベアーシステムによる生産方式ように、合理化を追求するあまり、仕事を細分化、単純化し、単純な仕事を繰り返すだけの職務であったり、言われたことを言われるままにやっている仕事では、仕事に意味が見出せず、働くことが苦痛になる。

③官僚的トップ・ダウン管理

 官僚的なトップダウン管理の下では、官僚性集団の特徴である、集団執務体制による個人責任の

希薄、集団優位の意識や専門的部門主義によるセクショナリズム、浅く狭い能力の発揮、単調感、

マンネリズムや命令の単一性による上意下達の指示体系、依存受け身体制といったことが起こり、

いわゆる三無主義がはびこり、仕事は見せかけとなって、仕事に生きがいが見出せず、仕事が苦痛

となる。

 ④暗い人間関係

  職場その他の組織には、生きた全人としての人間が、集まって働いている。仕事は生きた人間が

 行い、教育も生きた人間が行う。したがって生きた人間の関係が基礎的関係である。この基礎的関

 係である人間関係が、悪く、お互いがいがみ合ったり、憎みあったりしていると職場の雰囲気は悪 

 くなるし、職場が暗くなる。当然、仕事も面白くないし、苦痛となる。


等である。


 この苦痛に満ちた労働を回避するための、ポイントは、民主的管理秩序の確立である。

官僚的なトップダウンの管理方式から民主的管理方式へ転換することである。すなわち、統制、処罰の命令中心の管理から指導、教育中心の自主管理への転換である。そこでは当然働く人を単なる労働力とみるのではなく、自発的に働く意欲を持ち、責任感もある人とみる。すなわちプラン‐ドゥ‐シーへの参加と権限委譲である。参加とは、目標設定なり、実績評価なりに対し自由に発言することを認めることであり、権限委譲とは仕事上の意思決定権を渡すことである。これにより働く人は自己責任、自己統制、自己評価、自己啓発のもと、目標達成に努力することになり、受動的から能動的となり、仕事に対して責任と愛情と誇りをもつようになる。


 具体的には、職務拡大と職務充実である。

 専門化され単純化された仕事をある程度の大きさにまとめ仕事の範囲を拡大し、仕事に意味をもたせる職務拡大と、仕事に計画、実行、統制(目標管理)といった内容を加え、仕事そのものを質的に充実させる職務充実である。これによって、苦痛に満ちた労働は、喜働へと変わるのである。もちろんそうなるためには、上司、先輩による適切な仕事の与え方、任せ方、信頼を中心とした適切なリーダーシップと部下、後輩自身の自主性、積極性、完遂性、誠実性を中心としたワークマンシップが必要となることはいううまでもない。


 喜働(Arbeitsfreude)とは、

 ①仕事における自己実現

 ②働くこと自体の喜び

 ③仕事の完成と社会への貢献、自己成長

 ④仕事における人間協力と連帯感の確認

 ⑤職場におけるかけがいのない貴重な存在としての承認

 ⑥仕事の喜びによる余暇と家庭の楽しみ

を内容とする。


 この喜働という概念は、当然狭義の意味の自己実現ではなく広義の自己実現であることはいうまでもない。

 働くということは、文字通り、自分のためだけでなく、世のため人のために働く、すなわち、ハタをラクにすることであり、この両者が満足されることが生きがいとなるのである。


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2015年

2月

27日

働くことの意味 - 人間の基本的欲求である

(1)人間の基本的欲求

 

 人間は必ず役割をもっており、それぞれの役割をきっちり果たしていくことが働くことである、ということは既に述べたとおりである。

 働くとは、ハタ(自分の周囲の人、もの、事)をラク(楽、幸福)にすることである、と定義した。働くという字は、人が動くと書く。ただ動くだけなら文字通り動物と同じであるが、働くという場合、人間らしく動いてはじめて「働く」と言えるのである。

 人間は自分一人では生きられない。「じんかん」と書いて人間と呼ぶのであって、この「じんかん」は、基本的には「社会」を表しており、人間が社会的存在であることを意味している。人間は、人間(社会)との関係において、はじめて人間であり得るのである。この意味において、人間らしく動いてハタをラクにすることは、本来、極めて自然で基本的な欲求であると言えよう。


 人間は基本的に愛されたい、褒められたい、認められたい、役に立ちたい、自由になりたいという5つの願いをもっていると言われているが、人の役に立ちたい、人から認められたい、褒められたい、といった願いは、自分の働きが人の役に立ち、認められ、褒められたいという願いに他ならない。しかしながら、こうした人間の基本的な欲求であるはずの「働く」ということが、なにゆえに、人によっては苦痛となったり、喜び、生きがいとなったりするのであろうか。しかも、働くことが苦痛、苦労であり、辛いものという人、そこまでいかないまでも、働くことに意義が見出せず、何となく惰性で働いている人の何と多いことか。


 今日、「働く」ことについて代表的な考え方が3つあると、鎌田 勝氏はその著書「人材の育て方」の中で述べておられる。

 第1の考え方は、働くことは苦痛であり、苦労であり、必要悪である、という考え方で、労働と呼ぶ。英語ではlaborで、その語源はslave、奴隷である。「働く」ことは奴隷のすることだと考えられていた。したがって、なるべくラクに働きたい、なるべく短時間がいい、苦痛の代償に高賃金を、苦痛の回復にレクリエーション(人間性の再創造)が必要、とする考え方である。

 第2の考え方は、働くことは喜びであり、楽しみである、とする考え方。労働ではなく、朗働と呼んでみたらどうか、というもので、英語ではwork、作品の意味である。自分で作ったものを作品と思うようになったら、この段階に進んでいるといえる。職人と言われる人はこの世界、自主管理小集団活動はこのレベルと言える。多くの働く人は、この1と2の中間にあるのではないかと考えられる。

 第3の考え方は、働くことは、使命であり、生きがいである、とする考え方である。天職または聖職と呼び、英語ではlife-workである。職業のことを英語でcalling、ドイツ語ではBelufというのはこの意味である。苦楽を超越して、社会のために尽くす、報いられることを期待せず、奉仕に至福を感ずる境地である、というものである。

 以上が、鎌田氏の説の骨子である。


 確かに昔は、「女工哀史」や「ああ、野麦峠」などにみられるように、人間性を無視した苦役とも言えるような時代もあったが、もともと日本には、働くことを「労働」という言い方はしなかった。戦後、いわゆる欧米の「労働」という考え方が支配的になり、そのような考え方をする人が進歩的で、インテリであるという風潮が生まれ、その人たちが戦後の労働組合を作り、労働運動を指導することによって、働くことが、苦痛を伴う力作であるという考え方を浸透させた。

 しかしながら、今日の日本社会においては、所得水準も向上、平準化し、かつてのように「生活のためだけに働く」といった人はほとんどいないといってもよい。それにもかかわらず、働くことを苦痛であるという先入観をもっている人も多い。「労働」という文字そのものからくるイメージのせいかもしれない。


 いずれにせよ、働くことを、生活のために仕方なく、義務感でするか、やりがい、生きがいをもってするかは、それぞれの時代や立場、境遇、仕事の種類・中味などによって異なるが、基本的には人間観や仕事観によるものといえる



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2015年

2月

25日

社会観・世界観

「競争」から「共創」へ

 自然を一つの有機システムとみなし、人間のいのちも地球のいのちも、さまざまなシステムのつながりによって創り出されるはたらきである、と考える。

 いのちは秩序を創り出すはたらきであって、ものではない。ものは存在を意味し、はたらき、機能を意味しない。ところが近代科学はすべて対象をものとしてとらえ、それを個体、細胞、分子、原子というように細分化し、分析して構造を解明しようとする。したがって、いのちをもものとしてとらえ、心と分離した。病気になったら肉体そのものの悪い部分を取り除くことに主眼を置く。そこでは心のはたらきは捨象される。このような発想が、近代文明、現代社会をリードしてきた。つまり、部分部分の存在を重視し、つながりを軽視してきたのである。部分部分の存在を重視するということは、自分の存在、会社の存在、組織の存在、国の存在、ものの存在に重点が置かれ、そこでは、「どれだけ長く生きるか」が最重要課題となり、そのためにはどれだけ利益をあげるかが最優先されることになる。そしてその利益をあげるためには他を犠牲にしようが、どんな手段を取ろうが許される、という考え方、生き方である。そのような考え方、生き方が周りの秩序の破壊につながっているのである。


 PIではそのような考え方はとらない。役割、はたらきを重視するから「どれだけ長く生きるか」というよりは「どう生きるか」が最重要課題となる。しかも「どう生きるか」を決める基本は、人間社会や自然界の秩序維持への貢献やはたらきとなる。


 石川光男基督教大学教授は、その著書『自然に学ぶ共創思想』のなかで、「共存」「共生」という言葉がある。「共存」とは、人間同士、民族同士、国同士ともに相手の存在を認めて、意見や主張が異なっても、お互いを侵略せず仲良くしていこうというものである。「共生」は、人間以外のものも含めて、仲良くしていこうということで、「共存」よりも一歩進んだ考え方ともいえるが、ともに「存在」中心の価値観から脱していない。これからは、人間や生物がお互いに邪魔しないで存在すること以上に、さまざまなシステムがいろいろな要素の相互依存性を重視して、秩序を創り出すはたらきを高める生き方を目指さなければならない、という意味で「共生」ではなく「共創」ということをおっしゃっている。


 また最近では、「勝ち組」「負け組」といって、人や企業等を二つに分けて評価する傾向がある。「勝ち組」に入ることが成功の証であり、幸福の条件である、というのである。一握りの「勝ち組」に入るためには他者との競争に勝たなければならない。それらの人や企業にとっては、人生のすべて、企業活動のすべての局面において、競争が主要な動機となる。幼稚園選びから、学校選び、仕事選び、恋愛、結婚、企業活動における意思決定、決断に至るまで、すべてが競争というわけである。その競争に勝つためには、他を犠牲にしたり、損害を与えることになっても止むなしとする考え、行動といった行き過ぎた自由競争の結果、ゆがんだ格差社会を生んだともいえる。

 「競争がないと、進歩がない」という議論もあるが、競争が激しくなると、自分の利益が優先され、視野が狭くなり、判断も短期的になる。結果的に仕事の質が低下し、創造性をも奪ってしまい、長い目で見ると進歩につながらないことも多い。


 そもそも「競争」(competition)という言葉の語源は、「共に栄える」という意味だそうだ。ともに栄えるために相互に競うことは、能力向上、創造性向上という意味で必要ではあるが、必要以上の競争いは奪い合いを、弱肉強食、優勝劣敗の世界を現出させ、破壊へと導き、PIとは相いれない。


 PIでは、お互いがそれぞれの役割を果たしながら、競争の本来の意味である「共に栄える」、秩序ある社会を目指すのである。そして石川教授は、それを”「存在」の人生から「共創」の人生へ”、”「存在」の文明から「共創」の文明へ”と進んでいくことの必要性を説いておられるが、PIでは、さらに、”「競争」から「共創」へ”を加えたい。 

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2015年

2月

23日

PIにおける人間観(つづき)

(5)目的志向的存在である

 

 人間は合目的的活動の主体である。ただ単に生きているだけの現実的存在だけでなく、よりよく生きようとする希望と計画と能力を持つ可能的存在である。目的を設定(価値判断)し、手段を選択(事実判断)し得る存在である。

 

 人間はこの存在の二重性の一方を否定するのではなく、両者を統合しながら生きている。現実にはたくさんの煩悩・欲望をもちながら、一方では真の追求、善の実現、美の創造、聖の体得を目指して努力し、行じようとする存在である。

 

 生活の目的は生きがいである。生きがいとは、生活の全体を規制し、左右している生活原理であり、価値観である。その人の志である。

 

 PIではこの生活原理として「幸福」を設定するのである。

 

(6)無限の可能性を持つ偉大で最も貴重な存在である

 

 「人間には無限の可能性がある」とみる。そのように自らが信じれば、可能性に向かって積極的にチャレンジするであろうし、周囲の親や先生、経営者、上司、先輩等の子どもや従業員、部下、後輩等を育て、指導する立場にある人等もその可能性を引き出すようにするであろう。

 また、人間には偉大な力ある、ということは、その力の発揮の仕方によっては善にもなるし、悪にもなる。その偉大な力を社会に役立つように発揮することが大切である。

 

 人間は万物の霊長であり、人格的道徳的主体である。自由で、平等で、かつ無限向上への願いを持ち努力する、この世の中で最も貴重な存在だといえる。カントの定言命令に曰く、「汝の人格及びあらゆる他人の人格の内なる人間性を常に同時に目的として扱い、決して、単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ」とある。人間の持っている労働能力は相対的価値であるから手段として利用することは許されるが、人格そのものは絶対的価値であるから手段として利用してはならない、ということである。常に目的として取り扱い、個々人の人間としての志を遂げしめ、幸福を実現せしめなければならないのである。

 

 ここで人間の持つ自由と平等について触れておきたい。

 自由には自己肯定面と自己統制面がある。自己肯定面はさらに消極的自由と積極的自由の二つに分けられる。

消極的自由は、~からの自由(free  from~)で、~からの解放という意味での自由である。積極的自由は、~する自由(free  to~)で、主体性(自主、自発、自立)を意味する。しかしながら、この自己肯定面だけでは、自由の乱用となり、得手勝手な言動、弱肉強食、優勝劣敗の世界を現出、差別と不平等を拡大する。したがって、必ずこの一方で自己統制面である自治、自制、自律、すなわち責任がなければならない。これはある意味非常に不自由と感じられるが、この責任があってこそ自由というものが他と相食まず、相争わない共存共栄となり、自分も生かされ、他をも生かすことになるといえる。

 したがって、真の意味での自由とは、「責任ある選択」(responnsible  choice)ということになる。

 

 平等には、4つの説、考え方がある。生まれながらの平等説と理想としての平等説と多数決原理としての平等説と真の意味での平等説がある。

 生まれながらの平等説は、これを立証することは不可能である。生まれながら平等であるということはあり得ないことであって、これを主張することは独断と言わなければならない。

 理想としての平等も、生まれながらの平等を前提としており、同じような誤りに陥る。

 多数決原理としての平等説は、人間の質的な面を捨象し、量的な面だけをとらえて人間の平等を主張する。確かに人間の生活の一つの場面においてはこれが成り立つ。しかしながら、生活のあらゆる場面、ことに人格の関与する面においてこれが成り立つというのならば、人間には質の差がなくなり、量だけのものとなり、およそ価値的なものと無縁になってしまい、これも不可能である。

 かくして、真の平等とは、絶対的価値である人格は尊厳であって平等である。それ以外の相対的価値である能力、素質、個性等において差があることを認める平等、すなわち仏教でいう平等即差別、差別即平等という意味における平等である。柳は緑、花は紅であって、柳が紅くなり、花が緑になることではない。

 

 人間の尊重とはここに基礎を置くのである。従業員の人格を尊重し、自主性の確保、成長性の保障等一連の方策を中心とした経営であり、管理でなければならない。D.マクレガーのY理論の人間観をとるのである。すなわち、人間は本来労働の欲求を持ている、考える力も持っている、責任感も、進んで仕事をしようとする自発性も持っているという人間観に立って、その熱意、英知、責任感と自発性を100%発揮できるような条件を設定することが管理の主要な任務とするのである。


 人間を尊重するとは、人間が独善的に自惚れることではない。尊貴であればあるほど謙虚に万物相互依存の認識と万物相互奉仕の実践とを行わなければならない。愛を基調とした万人万物の共存共栄を祈る「いにちの哲学』である。


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2015年

2月

20日

PIにおける人間観(つづき)

(3)複雑微妙、様々な欲求を持つ存在である


 現実の生きた人間は、複雑微妙である。理性的であり、合理的であり、利己的、経済的であるといった制度的人間面とその一方で、感情的であり、非合理的であり、利他的、非経済的でもあるといった自然的人間面を併せ持っている。また、善なる面、悪なる面も持ち合わせている。


 生きた人間は、P.F.ドラッカーが言ったように、それぞれが単独で職場に入るのではなく、the  whole  man

としての全人が、職場に入って仕事をする。制度的人間だけが職場に入るのではないのだ。(Man  can  not  hire  a  hand,  because  the  whole  man  slways  comes  with  it)  したがって、組織や規則、分掌規定をもって制度的人間面をいかに縛っても、感情的、非合理的、主体的な自然的人間は、これに苦しみ、反発することになる。全人としての生きた人間として接することが大切である。


 複雑微妙な人間は、様々な欲求、欲望を持つ存在である。人間は、生まれてから死ぬまで数多くの欲求・欲望を中心に活動している。働く人も同様で、大小、軽重、高低様々な欲求・欲望を持っている。

 数限りなくあるこれらの欲求・欲望を集約すると、次の二つになると考える。

 

 (ⅰ)自分の仕事に全力投球したい(成長欲求)

 (ⅱ)自分の業績や能力に正しく応ずる物質的、精神的な報酬を得たい(欠乏欲求)


 これをA.Hマズローの欲求5段階説に当てはめると、筆者の物質的報酬は、マズローの生理的欲求と安全的欲求に当たり、精神的報酬は、社会的欲求と自我的欲求に当たり、仕事に全力投球するは、自己実現的欲求、すなわち自由、自主、創意、本領発揮に当たる。


(4)役割を持つ存在である


 人間は必ず役割を持っており、人生はその役割の連続である、ということはすでに述べたところである。


 家庭にあっては、夫婦、親子、兄弟姉妹、祖父母、孫、親族等

 職場にあっては、経営者、管理監督者、従業員等

 社会にあっては、友人、先輩後輩、同窓生、同郷者、クラブのメンバー等


がある。

 

 また、人間は無限の時間と無限の空間の交差点に立っていることは前述のとおりであるが、国際基督教大学石川光男教授はそこから「時間的役割認識と空間的役割認識」が生まれてくる、とおっしゃっている。「時間的役割認識」とは、過去と未来に対してどのような役割を果たすかということを意味し、自分が生きている人生時間だけに注目するのではなく、自分の死後に何を残すかという立場で、少なくとも百年を単位とした時間的スケールの拡大が要求され、「空間的役割認識」とは、自然・社会・文化という三つの環境のために個人や組織がどのような役割を果たすかということを意味し、友人や家族といった小さなスケールから、地球規模の自然や人類を考えるという大きなスケールにまで視野を拡大する必要がある、と指摘していらっしゃる。(石川光男著「自然に学ぶ共創思想」)


 人間の生きがいや幸福は、この役割の遂行と重大なかかわりがあることに注目すべきである。何となれば、それぞれの役割をしっかり果たさなければ、周囲の関係者等から信頼を得ることができず、生きがいを感じたり、幸福になることは難しいと言わなければならないからである。

2015年

2月

14日

PIにおける人間観

 前稿では、PIの基本的考え方について述べた。今稿では、PIの拠って立つべき人間観について述べることにする。

 人間観とは、「人間はいかなる存在か」「人間の存在をどのように解釈するのか」ということである。従来から様々な人間観がある。自然人、理性人、工作人、経済人、社会的動物等々、また、性善説・性悪説、X理論・Y理論等、その時代その時代、立場立場でいろいろな人間観が主張されてきたが、ここではかかる一面的な見方や二項対立的な見方ではなく、多面的で複雑に絡み合った存在とみる。

 (1)自然の一部である ― 生かされて生きている存在

 (2)小宇宙的存在である

 (3)複雑微妙、様々な欲求を持った存在である

 (4)役割を持つ存在である

 (5)目的志向的存在である

 (6)最も貴重な存在である 

 

(1)自然の一部である ― 生かされて生きている存在

 

 人間も自然を構成する下部構造としてのホロンとみる。ホロンとしての人間は、自然(宇宙)において生かされている存在であり、地球、自然、社会という全体システムの秩序維持に寄与すべき存在である。「私」を超える「大いなるいのち」(筑波大学村上和雄名誉教授の言う「サムシング・グレート」)が、ある時は「人間」「私」として、ある時は人間以外の「動物」や「植物」のいちとしてあらわしたところの、生かされて生きている存在である。

 

 ホロンとしての自律性を持っているが、それは同時に社会、自然、文化という地球的生命の進化・秩序維持に奉仕すべき存在だということである。自然と人間とを対立的にとらえて自然を支配、征服の対象ととらえるべきではない。自分というのは、自然の部分であるといわれるのはその意味であろう。

 

(2)小宇宙的存在である

 

 無限の時間(宙)と無限の空間(宇)の交差点に、現在の自分が立っている。生きた人間はそれ自身完結せる原点としての個人であると同時に、人格主体の集合体である集団のメンバーという二つの側面を持っている。この二つの側面は切り離すことはできない。

 無限の時間は歴史的である。過去から未来へのいのちのつながりを示す。自分のいのちの拠って立つところである。現在の自分が生きているということは、先祖の誰一人欠けてはならないということを意味する。多くの人は生きていることが当たり前と思っているが、本当は非常に不思議なことであり、驚くべきことなのである。普通であれば有り得ない,有ることそのものが難しい、有難い存在なのである。一説によると人間として生まれてくる確率は約250兆分の1で、これは宝くじの1等が連続で100万回当たることに相当するとのことである。

 

 この有難い存在ということから、有難いという感謝の気持ち、感恩感謝の気持ちがわき出てくるのである。恩というのは因(もと)の心と書き、自分が現在生かされていることに対する因(もと)の心、いのちのつながりに感謝するということである。

 無限の空間は、外延的である。横の空間的広がりであり、社会を表している。その社会に対して、感謝の気持ちを具体的に行動で表現することである。

 ここから万物相互依存(one in all,all in one)の認識と万物相互奉仕(one for all,all for one)の実践の必要性が出てくるのである。すなわち、自分の役割を、使命をしっかりと果たすことを意味する。 

 

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2015年

1月

30日

セルフ・イノベーション

 PIの基本的考え方の3つ目は、「セルフ・イノベーション(自己変革)」である。プロとしての能力、役割も環境の変化によって、求められるレベルや内容が変わってくる。したがって、常にブラッシュアップして環境変化に対応していかなければプロとしての地位を保てない。


 技術革新の進展、経済活動の情報化、サービス化ソフト化の進展、価値観の変化、国際化等々の急激な変化が、これまでに身に付けてきた知識や技術の変革を迫ってきている。それに気づかなかったり、気づいても今までの考え方、やり方にいつまでもこだわっていたり、変化の受け入れを拒んでいると、取り残されてしまうことになりかねない。


 魅力ある人であり続けるためには、変化に果敢に挑戦し、より高いレベルのハタラキができるよう能力を伸ばしていくことが大切である。

 これは一個人のだけの問題ではなく、企業にとっても同様である。同じような製品を同じようなやり方で作ったり、売ったりしていては、変化している社会のニーズに応えられず、社会から抹殺されることになろう。社会の一機関である企業が、社会の変化の中で生き残っていくということは、社会が必要とする製品・サービスを提供し続けていかなければならないのだ。そのためには、それまでの本業をシフトしていくことも必要なのだ。

 個人にしても、企業にしても役割の変化に敏感に反応して、今までのものを捨てたり、新しい価値を創り出すことが大切である。


 本来生命(いのち)のハタラキは、変化そのものであり、生成化育を繰り返しながら成長していくのである。あるものがその状態・姿を変えて他の状態・姿に変化することをいうが、さなぎが蛾になり、食べたものが人間の肉体になり、子供が大人になるようなものである。人間の体を構成する細胞や組織が早いもので2~3日で、最も長い骨や歯で15年くらいですべて入れ替わってしまうのである。つまり、毎日毎日の新陳代謝によって、いのちそのものを維持しているのである。逆に、新陳代謝がうまく行われないと死に至ってしまうのである。


 変化こそが、いのちの、人間の本性であればこそ、変化を恐れず、変化をチャンスととらえ、それに果敢にチャレンジする”セルフ・イノベーション(自己変革)”が大切である。

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2015年

1月

19日

「プロ」になろう

 PIとは、自分の役割をきっちり果たすことであったが、これは言い換えると、「プロフェッショナルになれ」ということである。

 アメリカ大統領であったJ.F.ケネディは、合衆国国民に対し、『合衆国があなたのために 何をしてくれるのかを 問うのではなく あなたが合衆国のために 何ができるのかを 問いたまえ』と訴えたという話は有名であるが、PIの基本的な考え方の2つ目は、「自分は何ができるのか」を常に自分自身に問いかけるということである。

 

 「会社が何をしてくれるのかを問う前に、自分が会社に対して何ができるのか」を問うべきである。「自分が会社に対して、期待通りの役割をきっちり果たしているのか、どう会社に貢献していくのか」またそれを通して社会にどう役立っていくのか、を考えていくことが必要である。「これで自分は会社に、社会に貢献していく」というものを身につけて、さらに環境の変化、役割の変化に応じて、その幅を広げたり、レベルを上げていくことが大切である。それが「プロフェッショナル」ということであろう。

 

 「プロフェッショナル」とは、高いレベルの能力を持ち、いまなにをすべきかを、誰に言われなくても認識し、それをタイミングよく発揮できる人である。高い能力を持っていても、人から言われないとできない人や、ここぞという肝心な時にそれを発揮できない人は、本当の意味で「プロフェッショナル」とは言い難い。

 因みに、アマチュアというのは、指示されるまで動かない・動けない人、指示されたことだけする人、指示されたことしかできない人のことを言う。いわゆる「指示待ち人間」と言われている人たちである。

 

 魅力ある人になるためには、「プロ」にならなくてはならない。「プロ」とは、自分の役割(使命、なすべきこと)をしっかり自覚し、それを立派に果たす人のことを言う。

 「プロ」としてその役割を立派に果たすことを「ハタラク」(傍を楽にする)と言い、その行動基準を「~シップ(~ship)」という。日本語では「~道」という。ジェントルマンシップ、スポーツマンシップ、リーダーシップというは、社会人として、スポーツマンとして、リーダーとしてそれぞれの役割を立派に果たすための道である。武士道、剣道、茶道、華道等みな同じである。

 

 ここで特に注意しておきたいのは、役割を立派に果たすためには「自分の役割をしっかりと自覚する」ということが重要である、ということである。自分勝手の思い込みで、自分はしっかりやっていると思っているが、周囲の人からすると、全然、ということが至る所で見られるからである。ある調査によると、「上司が自分のマネジメントに自信あり」と答えた割合が約70%に対し、「上司のマネジメントに満足している部下」は38%しかなかったという。このような上司の役割自覚と部下の役割期待とギャップが、不平不満や失望、怒りにつながってい行くのである。企業が市場や消費者のニーズに合わないものを作って、こんないいものを買わないのは消費者が悪い、と言っているのも同じである。

 

 部下や消費者が「何を期待しているのか」をしっかりと自覚したうえで、自らの役割を果たすべく行動することが「プロ」である。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2015年

1月

16日

すべては自分から

 PIとは、個人個人が自分の役割をきっちりと果たすことであった。その役割を立派に果たすための基本的な考え方の第1は、「すべては自分が原因であり結果である、すべては自分から始まる」、別な言い方をすると、「責任を他に転嫁しない」「自分の人生はすべて自分の責任である」ということである。二宮尊徳翁の「自立自助の精神」である。


 そんなこと当たり前じゃないか、と言われるかもしれないが、意外とそうでもないのである。無意識に「景気が悪い、社会が悪い」「うちにはろくな社員がいない」とか「あの課長が悪い、あの上司が悪い」「あいつが悪い、あいつさえいなければ」「給料が安い、休みが少ない」といったようなことを言葉に出したり、現実には他への責任転嫁や不平不満が結構多いのも事実である。


 「立ち向かう 人は己の鏡なり 写してや見よ 己が心を」という古歌がある。人間は自分の顔や表情を直接自分の眼で見ることはできない。他人の表情や態度が、自分のとっている態度や言動を写しているのだ、と教えてくれているそうだ。態度とは、その人の心の姿勢ををいい、普段その人が心の中でどんなことを思い、どんなことを考えているのかの集積が、表情や態度、言動となって表れるのである。自分が投げた態度や言動が、そっくりそのまま相手から投げ返されてくるのである。「嫌な上司」「悪い部下」は、自分の表情、態度や言動が鏡に写っていただけのことである。


 そう考えると、現在自分の周りで起こっている現象は、すべては自分がまいた種であり、自分が原因をつくり、それが結果として今現れれているということになる。ジェームス・アレンも「人間は自分の人格の制作者であり、自分の環境と運命の設計者である」(ジェームス・アレン著坂本貢一訳「『原因』と『結果』の法則』)

と言っている。


 まずは、脚下照顧せよ!自らを正せ!ということであろう。


 



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2015年

1月

14日

PI発想の必要性

 真の幸福、繁栄は、まずそれぞれが与えられた、あるいは獲得した自分の役割をきっちり果たすことによってのみ実現できるのであって、他から奪ったもの(不正をして得た利益、自らの働きによらないで得た利益)では、真の幸福や繁栄は実現できなということである。

 PI発想の原点は、それぞれが自分の役割をきっちり果たすことであり、まず、「自分から」「他人のために」しかも「自分らしく」ということである。

 自分の置かれている立場や自分への期待をしっかりと自覚し、家庭や会社、地域、国家、国際、地球、宇宙といった社会に対して、いうなれば、「世のため、人のために」役立っていくかを、考えていくということである。

 このような意味からも、企業も人もすべて、今一度原点に還り、「PI発想」をする必要があろう。それが真に、働く人の幸福と企業の繁栄につながると同時に、地球や自然等との調和的秩序維持につながるものと考えるからである。

 


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2015年

1月

14日

個人と企業、その他の社会との関係

 この関係は、個人と企業、他の社会との関係も同じであろう。その関係を図示すると図ー2のようになる。これらの関係も前述したように相互関連しあっており、つながっている。それぞれが自己の役割をきっちり果たしてこそ秩序ある社会関係が維持される。

 これらの関係の中で、個人としての人間と、人間が作った社会以外の生物や地球、自然、宇宙といった社会は、基本的には調和的秩序を維持しているし、人間との関係においても、自らの役割を果たしている。

 これに対し、人間(人間集団)だけがこれらの秩序を乱しているといえる。人間のエゴが、企業のエゴが地球規模で自然や生態系を破壊し、地球全体の秩序を乱しているし、また、民族紛争や政治・経済的な軋轢を生んでいる。一方で、国内に目を転じれば、産業界や政界における食品偽装問題や政治とお金の問題等、また一般社会においても残虐な殺人事件や詐欺事件等枚挙にいとまがないほどである。

 これらはすべて、自分だけがよければ、わが社だけがよければといったエゴである。がん細胞のように他の細胞といっさい協調せず、自らの利益だけを獲得すればよい、そのためには、どんな事をしてもよい、見つかりさえしなければいいという姿勢である。そのような態度は一時的には儲かっても、長い目で見ると決して良い結果にはならないように思う。昔から、「与えれば与えられ、奪えば奪われる」といわれるように、自分だけがよければいいというエゴは、「奪う」ということになり、「関係性」「つながり」を断つことになる。一時的にはうまくいったように見えるが、長い目で見ると必ずしっぺ返しがあるということを知るべきである。

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2015年

1月

12日

ホロン(holon)

アーサー・ケストラーが言った「ホロン(holon)」の考え方である。(図ー1)

ホロンとは、ホロス(holos)という「全体」を意味する言葉と、オン(on)という「粒子」又は「部分」を意味する言葉との合成語で、「個であると同時に全体であり、全体であると同時に個である」、仏教的にいうと「一即多、多即一」という考え方である。

 石川教授の言を借りて説明すると、自然は1つの有機システム(生命体)であって、1つ1つにホロンが様々なレベルで階層的に積み重なった構造をしており、上から見れば部分であり、下から見れば全体となる、ということである。

 個々のホロンは、ホロンとしての自律性を持ち、個性的な動きをする。1つのホロンは、自分を構成する下位レベルのホロンを全体的秩序に従わせる支配者の役割と同時に上位レベルのホロンに従属・支配を受けるのである。全体の秩序を維持するために自主的に自らを消滅させたり、あるいは再生させたりして、構成部分を作り替えたりする。

 さらにこのとは、1個体の内部だけでなく、個体の集合体も有機システムを構成する。アリや鉢の集団がその典型的な例と言える。集団そのものが1個の生物と同じ機能を持っているのである。生殖機能や筋肉、肝臓、腎臓といった機能を特定の構成員が担当する。1個の生物というより、有機体の中の細胞と考えるべきである。そして、それぞれの細胞が自分の役割・担当をきっちり果たすことによって、生命を維持しているのである。

 地球上の生態系は1つの生命体であり、人間も自然を構成する下部構造としてのホロンであり、人間だけが自然から切り離された特殊な存在ではない。当然地球的生命の秩序維持に寄与すべき存在である。ホロンとしての人間は、自律的に行動できるが同時にその行動は、地球、自然、社会という有機システム全体が調和のとれた機能を維持するために役立つ行動でなければならないということである。(石川光男著「生命思考」)

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2015年

1月

09日

人生は役割の連続

 およそ世の中に存在するものはすべて役割(いのち、使命、ハタラキといってもいい)を持っている。しかもそれらは単独では存在せず、お互い助け合い、影響しあいながら生き、存在している。個々の人間はもちろん生きとし生けるもの、有情非情すべて役割を持ち、影響しあいながら存在している。


しかも、それぞれの置かれた立場や周囲に環境の変化に応じて、果たすべき役割も増えたり、変わったりする。たとえば、独身の男性が結婚することによって、それまでの親に対する子供の役割のほかに、妻に対する夫の役割が増え、子供ができれば子供の親としての役割が増え、求められる役割、ハタラキも変わってくる。また会社や職場で管理職になれば、上司に対する部下の役割のほかに、部下に対して上司の役割が増え、果たすべき役割も変わってくる。その変化に対して自らを、自らのハタラキを変えていかなければならない。なんとなれば、環境の変化、役割の変化に気づかず、それまでのやり方、生き方を変えられず、その対応の遅れ等から、絶滅してしまった生物や倒産に追い込まれた企業も多く、また周りからの信頼が得られず、人間関係が悪化し、ストレスから健康を害したり、社会的な問題を引き起こすということも多くみられるからである。

 

 このように与えられた役割や自ら獲得した役割は増えたり減ったりしながらその存在が続いていく。一人ひとりの、あるいは一つ一つの役割の連続が人生であり、それぞれの一生であるといえる。この世は役割の連続、役割のつながりということになる。国際基督教大学の石川光男教授は『命(いのち)はつながりである』とおっしゃっている。この世に存在するものはすべていのちを持っており、そのいのちはつながっているということである。いのちのハタラキが役割であり、その役割はつながっている。小は素粒子、細胞から、代は自然、宇宙に至るまで、それぞれが自らの役割を果たすことによって、秩序を維持しているのである。逆に言うと、それぞれが自分の役割鵜を果たすことによってのみ、秩序を維持することができるのである。

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2015年

1月

08日

PIとは

  PIとは、パーソナル・アイデンティティ(Personal Identity)のことである。アイデンティティという言葉はE.H.エリクソン(Erik Homburger Erikson)が初めて用いた言葉で、もともと「同じであること」「同一性」という意味であったが、そこから本質、本性、主体性、独自性という意味にも使われている。「他者との比較において他者と自己を区別する自己の独自性または、単純に区別するもの」という意味である。


 これは単に、他人は他人、自分は自分と区別するという意味だけの自分勝手、わがままを意味しているのではない。「他者との社会的関係の中で自分は他人と違った独自の存在であることを認めるとともに、自らの成育の過程を通じて、自分は自分という一貫した自分らしさの感覚が維持できている」状態をいうのである。(高田、丹野、渡辺著「自己形成の心理学」)


 したがって、PIとは「自分らしく生きると同時に、それが周囲との関係性が維持でき、周囲を生かすことにつながる」、すなわち「自分をよりよく生かすことが他を生かし、他を生かすことがさらに自分を生かしてくれる」という相互依存、相互信頼関係をいう。換言すれば、自らの役割を十分自覚して、それをしっかり果たすために自己啓発、自己研鑚して、自らのハタラキを通して、世のため人のために役立っていこうとする考え方・生き方である。

2014年

8月

12日

一隅を照らす

 この小論は、企業と人間の問題を中心テーマとしている。PIとは、パーソナル・アイデンティティのことで、詳しくは本文で述べるが、簡単に言うと、自分の役割を自覚し、「自分はどうあるべきか」「何をなすべきか」を明確にし、その実現のために自己啓発、自己研鑽をして、「魅力ある人魅力ある企業づくり」を目指し、働く人の幸福と企業の繁栄を実現していこうという考え方であり、生き方である。

それぞれが与えられた役割をしっかり果たす、伝教大師が仰った「一隅を照らす」ということである。

 

「自分の役割を果たす」ということはどういうことかというと、「世のため、人のために働く」ことであり、自分のハタラキを「与える」ということである。個人として、働き人として、管理者として、経営者として、あるいは企業として、国家として、己の役割を果たすことをいう。

 

 ところが現実には、これと逆に、自分さえよければ、わが社さえよければ、といったことがまことに多くみられる。このような「我が儘」は、「奪う(関係性を断つ)」ことになり、それがいずれ自分に返ってくることとなり、幸福、繁栄につながらないばかりか、破壊、滅亡へと導くのである。ガン細胞がそうであるように、自我(エゴ)の主張ばかりして、他の細胞と一切協調せず、自らの細胞のみを増殖させ、全体のバランスを壊し、ついには自らの生命そのものをも奪ってしまうのである。

 

 このような現象が、産業界では、リコール隠し、食品偽装といった問題、政界では、官製談合、贈収賄問題、国家間では、民族紛争、人間間では、親殺し、子殺しをはじめとする人間関係の問題、人間と自然・地球との関係においては、地球温暖化による異常気象等々数多くみられるのは非常に残念である。

 今一度、企業も人もすべて原点に返り、PI発想をすることが必要ではないか、それが真の幸福、繁栄につながるのだと気づいてほしいと願い、したためたものである。 

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