PIにおける人間観(つづき)

(5)目的志向的存在である

 

 人間は合目的的活動の主体である。ただ単に生きているだけの現実的存在だけでなく、よりよく生きようとする希望と計画と能力を持つ可能的存在である。目的を設定(価値判断)し、手段を選択(事実判断)し得る存在である。

 

 人間はこの存在の二重性の一方を否定するのではなく、両者を統合しながら生きている。現実にはたくさんの煩悩・欲望をもちながら、一方では真の追求、善の実現、美の創造、聖の体得を目指して努力し、行じようとする存在である。

 

 生活の目的は生きがいである。生きがいとは、生活の全体を規制し、左右している生活原理であり、価値観である。その人の志である。

 

 PIではこの生活原理として「幸福」を設定するのである。

 

(6)無限の可能性を持つ偉大で最も貴重な存在である

 

 「人間には無限の可能性がある」とみる。そのように自らが信じれば、可能性に向かって積極的にチャレンジするであろうし、周囲の親や先生、経営者、上司、先輩等の子どもや従業員、部下、後輩等を育て、指導する立場にある人等もその可能性を引き出すようにするであろう。

 また、人間には偉大な力ある、ということは、その力の発揮の仕方によっては善にもなるし、悪にもなる。その偉大な力を社会に役立つように発揮することが大切である。

 

 人間は万物の霊長であり、人格的道徳的主体である。自由で、平等で、かつ無限向上への願いを持ち努力する、この世の中で最も貴重な存在だといえる。カントの定言命令に曰く、「汝の人格及びあらゆる他人の人格の内なる人間性を常に同時に目的として扱い、決して、単に手段としてのみ取り扱わないように行為せよ」とある。人間の持っている労働能力は相対的価値であるから手段として利用することは許されるが、人格そのものは絶対的価値であるから手段として利用してはならない、ということである。常に目的として取り扱い、個々人の人間としての志を遂げしめ、幸福を実現せしめなければならないのである。

 

 ここで人間の持つ自由と平等について触れておきたい。

 自由には自己肯定面と自己統制面がある。自己肯定面はさらに消極的自由と積極的自由の二つに分けられる。

消極的自由は、~からの自由(free  from~)で、~からの解放という意味での自由である。積極的自由は、~する自由(free  to~)で、主体性(自主、自発、自立)を意味する。しかしながら、この自己肯定面だけでは、自由の乱用となり、得手勝手な言動、弱肉強食、優勝劣敗の世界を現出、差別と不平等を拡大する。したがって、必ずこの一方で自己統制面である自治、自制、自律、すなわち責任がなければならない。これはある意味非常に不自由と感じられるが、この責任があってこそ自由というものが他と相食まず、相争わない共存共栄となり、自分も生かされ、他をも生かすことになるといえる。

 したがって、真の意味での自由とは、「責任ある選択」(responnsible  choice)ということになる。

 

 平等には、4つの説、考え方がある。生まれながらの平等説と理想としての平等説と多数決原理としての平等説と真の意味での平等説がある。

 生まれながらの平等説は、これを立証することは不可能である。生まれながら平等であるということはあり得ないことであって、これを主張することは独断と言わなければならない。

 理想としての平等も、生まれながらの平等を前提としており、同じような誤りに陥る。

 多数決原理としての平等説は、人間の質的な面を捨象し、量的な面だけをとらえて人間の平等を主張する。確かに人間の生活の一つの場面においてはこれが成り立つ。しかしながら、生活のあらゆる場面、ことに人格の関与する面においてこれが成り立つというのならば、人間には質の差がなくなり、量だけのものとなり、およそ価値的なものと無縁になってしまい、これも不可能である。

 かくして、真の平等とは、絶対的価値である人格は尊厳であって平等である。それ以外の相対的価値である能力、素質、個性等において差があることを認める平等、すなわち仏教でいう平等即差別、差別即平等という意味における平等である。柳は緑、花は紅であって、柳が紅くなり、花が緑になることではない。

 

 人間の尊重とはここに基礎を置くのである。従業員の人格を尊重し、自主性の確保、成長性の保障等一連の方策を中心とした経営であり、管理でなければならない。D.マクレガーのY理論の人間観をとるのである。すなわち、人間は本来労働の欲求を持ている、考える力も持っている、責任感も、進んで仕事をしようとする自発性も持っているという人間観に立って、その熱意、英知、責任感と自発性を100%発揮できるような条件を設定することが管理の主要な任務とするのである。


 人間を尊重するとは、人間が独善的に自惚れることではない。尊貴であればあるほど謙虚に万物相互依存の認識と万物相互奉仕の実践とを行わなければならない。愛を基調とした万人万物の共存共栄を祈る「いにちの哲学』である。